あっぱれな人生だったと思います

〜お読みいただく前に〜
この文章は、人の生死について書いてます。
自分の気持ちの整理として記録しています。
〜報告〜
PCR検査、陽性でした。
4月20日発症で4月30日に、隔離(健康観察期間)が解除されました。
この期間中、入院している父の部屋が空いているので、父が使っていたベッドでずっと寝てました。
〜訃報〜
4月29日の夜、隣の部屋で姉からの電話を受ける母の声を聴いて、『あゝ』と悟りました。
4月29日、20時過ぎに父、勝孝が83歳(満84歳)の生涯を終えました。
最後を看取って下さった婦長曰く、安らかな最後だったとのこと。
29日の朝は、病院からも、最後にお顔を見ておいた方がいいかもと連絡がありましたが、私がコロナの陽性ということで濃厚接触者である母は、会うことが許されませんでした。
保健所の担当の方も、事情を話すと、立場を超えて対応してくださいました。
病院の方も、保健所の方も、それぞれの立場をお持ちの中で、心ある対応をしていただけたと思います。
感謝しています。
葬儀の手配をする中で、特に決めている葬儀屋があった訳ではなかったので、バタバタしました。
こういうものはできれは、事前準備をしておくことをお勧めしますが、生前にはどうしても、向き合うことが出来ずに、準備を怠っておりました。
ネットの情報を元に、1つの祭儀場を見つけて、連絡させていただきました。
今回、母をはじめとして、参列できた身内が、本当に満足のいくカタチを用意していただけと感謝しております。
葬儀は、家族葬とさせていただきました
コロナということでもあったのですが、結果的に、母もゆっくりできて、一人一人が、父と向き合う時間を作ることができたと思います。
斎場の方に伺いましたが、今は家族葬を行い、ライブ配信にて身内以外の方に見ていただくスタイルも増えているそうです。
もしもの時とは、もしもを体験した人でないとわからないことが多いので、今回の経験を通じて、家族葬をお勧めします。
喪主は母でしたが、母の代理として、親族を代表して、最後の別れの言葉を務めさせていただきました。
父の死からは、全ての感情を抑えて淡々と告別式までの段取りを組んでいきましたが、やはり、あの瞬間だけは、感情が溢れ出してきて、暫くは言葉にできませんでした。
父が生前お世話になった方へは、本当に感謝いたします。
生前の元気だった頃の父を知っている方ならわかってもらえると思いますが、本当に破天荒で我が儘に生きた人でした。
私の人生に於いて、最も影響を与えた人でもありました。
とても不思議なことを考える人でもありました。
私は、人を理解することには長けていると思います。
しかし、そんな私でも、その不思議さは、理解できないものでした。
二十歳で、父の事業を引き継ぎ、立場ができた私は、父と何度も経営者として衝突しました。
あの頃は、理解し難きことが多すぎて、私の体に異変がおこり、数年その現象に苦しめられました。
それは、日常生活にも仕事にも影響を与える程でした。
治療も効果はなく、また、霊的なことも効果はなく、さまざまことを行いましたが、酷くなるばかりでした。
ある日、ふとした瞬間に、父の考え方にも一理あると、受け入れたことがありました。
全てを受け入れました。
その次の日に、身体の異変が無くなり、数年間にわたり悩まされていた症状、現象が跡形もなく消えてしまいました。
原因は誰にも分かりませんが、そんな体験をした時に、これほどまでに、影響を与える人であり、また、私は父の影響を受けていたのでした。
他人からしてみると、こんなに愉快な人はいないタイプですが、身内に持つと大変なタイプの人でしたので、常に反面教師としてきました。
ああならないように!
オレは違うんだと!
そう思いながら、しかしながら、歳を重ねるにつき、似てくる似てくる。
姿形だけでなく、思考も言動も似てくる似てくる。
似ているということが、今は、それが誇りでもあります。
告別式の間、不思議なことが起こっていました。
祭壇にある父の写真の両脇に灯籠があり、式が始まりしばらくすると、その1つが消えそうにゆらぐように点滅を始めました。
消えそうで消えない
付きそうで付かない
父がそこに居て、会話をしているようでもありました。
そして、霊柩車で葬祭場に移動して、火葬される訳ですが、最後に送り出し、骨となった父と対面しました。
とても白く神々しく、死は美しいものだと思えていました。
まだ実感が薄いだけなのかもしれません。
本当の意味で、父の死を受けいれるのは、まだ先のことなのかもしれません。
法名 釈勝念(しゃくしょうねん)
家族だけで、大好きだった父を笑顔で送り出せました。
そして、母との生活がしばらく続きます。
父はゴルフが好きでした。
休みの日には、朝から晩まで1000球を打つような人でした。
体力をつけるために大きなパワーステアリングのないジープに乗り基礎体力をつけたりしてました。
ゴルフ以外の趣味はなく、長く続けられたのもゴルフのみでした。
父がゴルフに使ったお金は家1軒買ってもお釣りが出るほどで、私が高校生17歳の時の誕生日プレゼントがゴルフの会員権てした。
そんな父が所有したゴルフクラブが家に80本残っていて、最近、孫たちのブームがゴルフのようで、父の遺したクラブは形見として、孫に引き継がれていきます。
父の代わりに、1本1本、渡していきます。
今日は、父の遺したクラブを使って、子と孫で練習場に行きたいと思います。
あっぱれな人生
父は若かりし日に養子として家を引き継ぎます。
先祖代々の土地を、事業を失敗する度に借金返済のために売り払い、今はほとんど残っていません。
子供の頃にオモチャも買ってもらえなく、貧乏のドン底から、事業が当たり、家には外車しかなく金庫の中に金の延棒でピラミッドが作れる程に財産を作ったり、自社ビルを建てて出来上がる頃には借金で一度も入ることなく売却して、それでも足りないから金塊を換金して借金返済に当て、もらってたゴルフ会員権を含め財産を全て売却したりと、波瀾万丈な一部始終を見せてくれました。
小学生の時、父の職業欄を書くことがあったのですが、1枚の紙には書ききれなかったほど、多岐に渡り仕事を変えていた人です。
週末になると熊本にゴルフに行き、夜はスナックに行き、スナックのママの口車に乗り、『お前の土地を買ったよ』と母に電話してくる人でした。
またまた、旅館経営者の口車に乗り、とても良い水がここの旅館にはあると、建物ごとその土地を買ってしまう人でした。
スッポンが良いとなると、スッポン屋を始める人です。
このオブジェにはパワーがあると言われれば、数百万円で購入して、置き場に困ってました。
このベッドにはピラミッドパワーがあると言われれば、数百万円で特注して、子供から見ても何で家にピラミッドがあるのか不思議でした。
スーツに天狗下駄を履いて街中歩いてるようなひとでした。
みんながお世辞で『いいですね』と声をかけるものだから、真に受けてプレゼントするために取り寄せて、誰にも受け取ってもらえずダンポールいっぱいの天狗下駄があります。
多くの人に騙されて、人を楽しませている人でした。
人を愉快にさせることが好きだったんだと思います。
だから、人を恨んでいるようなことを聞いたことがありません。
ただ、本当に母は大変だったと思います。
本当に、天晴れな人生だったと思います。
父と私の記録として、そして、生前の父のことを知る人への報告とさせていただきます。